森家の建造物 buildings
約550坪の敷地に、主屋をはじめ、米蔵、駕籠蔵、客座敷などの明治期以前の建物が残り、その後の昭和初期に建てられた茶室や枯山水の残る庭なども現存しています。中でも米蔵は、鍵に取り付けられた札に「文政四年築」と書かれており、文政4年(1821)の建築と考えられます。これは、建築年代が明らかな建物の中では、重要文化財大村家住宅(寛政年間:1789~1801)、町家資料館(寛政5年:1793)に次ぐ古さです。さらに主屋や下土間も同時期の建築と推察されることから、文政年間(1818~1831)の建物が3棟も残存していることになり、町内でも他に例のない貴重な建築遺産と言えます。
(木造2階建、切妻造、本瓦葺、平入) 文書などの資料からおおよそ江戸後期末の建築と判断される。本瓦葺の切妻造で側面を漆喰塗とし、広い通土間や小屋組の登り梁の形式など、内子町六日市の江戸時代の特徴を残し、当時の内子町の町家の主屋の建築様式を知ることができる。近代の整備による2階の居室化及び座敷の発達を示し、八日市護国の伝建地区の建物と同様に六日市の江戸期の町家主屋としても歴史的価値が高い。
(塗屋造、木造平屋建、 南側寄棟造、北側切妻造、桟瓦葺、平入) 材の風食や形式から、明治後期から大正期の建築と考えられる。炭などの燃料を備蓄した建物として使われた。近代以前の普段の生活に欠かせない建物であったと考えられ、周囲を塗屋造の形式として丁寧な造りをみせる。
(木造2階建、切妻造、桟瓦葺・本瓦葺、 平入) 客間棟、玄関棟、付属棟の3棟からなり、慶応2年(1866)には客間棟、玄関棟が建ち、その後まもなくして付属棟が建ったと考えられる。主屋とは独立した客座敷として、鞘の間を設けるなど極めて質の良い接客空間を造り、当時の森家の地域における役割と繁栄を表した建物である。また、玄関棟には隠居部屋等に使われたと考えられる家族用の居室を2階に設けており、充実した豊かな生活空間をもっていたと考えられる。
枯山水の庭をもつ。客座敷からの眺めがよく、また対角線上に茶室を設け、充実した接客空間を創出している。江戸後期から明治・大正期にかけて発展した煎茶文化の影響を受けていると考えられる。近世以前の縦長の町割りの中に、形式として商家としての空間と接客空間とが一体となって明確に残っているのはまれであり大きな価値。商家の発展を示す典型的な例である。
(土蔵造、木造2階建、切妻造、本瓦葺、平入) 建築年代は明治10年代とされ、建設当初からの大きな変更は認められない。季節によって取り替える建具や接客用の陶磁器や飾り雛などの貴重品が箱詰めして置かれ、道具蔵として機能していたと考えられる。裕福な商家など、経済力のある質の高い家には必ず供えられ、森家の経済的な繁栄を示す。
(木造平屋建、切妻造、桟瓦葺、妻入) 昭和前期に建設されたと考えられ、森家の敷地内では最後に建設された建造物である。2 つの釡跡が残り、茶室専用の建物として建てられたと考えられ、前面に造成された枯山水をもつ庭など充実した接客空間を創出し、また、森家の繁栄が昭和の前期まで続いたことを表していると考えられる。
(土蔵造、木造 2 階建、 切妻造、桟瓦葺、妻入) 文政4年(1821)の建築であることが鍵に付けられた札から分かる。主屋の後方に建ち、物資の出し入れなど、主屋の通土間との繋がりが想像される。日常の米の収納にこれだけ広い蔵は不要であることから、商売のために機能していたと考えられる。近代に米蔵として使われたとの伝聞があり、森家が近代になっても米を使う酒造等との関わりがあったと推測ができる。規模が極めて大きく、森家の経済的繁栄を表す。
(木造2 階建、切妻造、桟瓦葺、妻入) 井戸屋形と物置の2棟に分かれ、井戸屋形は主屋とほぼ同時に江戸後期末に建設されたと考えられる。物置も井戸屋形建設直後に建てられ、当初は居室の一部として使われたと考えられる。有力な商家の主屋の生活を支えた建物であり、当時の生活の空間の拡大を担った。主屋と共に保存が望まれる。
敷地は間口が狭く奥行きが長い長方形の形状とし、近世以前の町割りの特徴を見せる。東側に幅約1m前後の路地が通り、敷地北西側の中町通りまで抜ける。これを内子地区では「せだわ」と呼ぶ。敷地に連なる建造物によりせだわを形成し、これも近世以前の町割りの特徴の一つである。
『愛媛県内子町六日市森(油屋)徳三郎家現状記録調査報告書1』(2010年8月、森(油屋)徳三郎家・現状記録調査団編)をはじめとした資料をもとに作成しています。
主屋
せだわ
下土間
燃料蔵
米蔵
客座敷
駕籠蔵
茶室
庭